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子どもとのジェネレーションギャップに気づくと

伝え方も変わってくる

 

 

Ⅰ.はじめに

 

そばで一緒に暮らしている子どものこと。

わかっているようでわからないって悩みますよね。

 

おんぶや抱っこをして育てている時期は「おしゃべりできないから」って寛容でいられる親心も、3歳児のイヤイヤ期ぐらいから自分の考えを持ち始める子どもに「もう!!」って叫びたくなる回数も増えるのではないでしょうか。小学校に入学してしばらくはかわいかったのに、10歳も過ぎれば手をつないで歩くことも減り「何を考えているのかわからない」と感じることも多くなります。それが成長の証(あかし)だとわかっていても、洗濯や食事の用意とした世話を続ける親からすれば「わかりたい」と思うのは自然なこと。何かに悩んでいることに気づいても、手助けをしてあげたくても、顔さえ合わせてくれない時期もあるでしょう。

 

私もそうでした。

そして、今でもそうです。

 

声のかけ方すらわからないし、大声をあげたって反応さえもしてくれない時もありました。自分の行動に反省しながら「どうしたら通じるのだろう」ばかりを考えていて気付いたんです。自分の子どもといえども<相手の立場になって考えること>が必要だと。当たり前のことなにの、できなかったんです。

生まれた時から見続けている子どものことを、自分の生い立ちや経験と重ねずに育てるって難しい。だからこそ、ちょっと視点をかえて子どものことを考えてみませんか?子どもとの<いい感じ>の関係を続けるために。

 

 

Ⅱ.お金

 

インフレどころかデフレが続いているこの何十年間。1円の価値はあまり変わっていないと思う。しかし、1円を気にするようになったのは、平成元年(1989年)4月の消費税導入の時。今までは表示価格をたし算すればよかった支払いに、3%の消費税を加えてなくてはいけなくなった。自動販売機でジュースが100円で買えた時代だ。コンビニもできはじめ、自販機で買うかコンビニで買うか中学生だった私はよく友達と計算して悩んだものだ。

 

この消費税が加わることで当時の私達は<割合の計算>を1円単位でしていた。平成9年(1997年)4月から消費税が5%に引き上げられたとき、計算は楽になるなと思ったくらいだ。

 

ところが、消費税が当たり前の世代は計算をわざわざしない。ぴったりのお金を会計前に用意することもない。商品合計よりも少し多めにお金を用意するだけだ。さらに、現金以外の支払いも当たり前になってきた令和の時代。支払いをすることでポイントが還元されることもおおい。算数の授業で習う買い物計算がどれほど日常とかけ離れたものだろう。

 

消費税導入前に買い物をしていた世代は、小学1~2年生で習う<足し算><引き算>から生活に活用することができた。<割合>を習って活用するまでに当時の子どもたちもとても苦労した。今の子どもたちが「多めのお金を用意する」だけで計算して買い物をしないのは当然のことなのかもしれない。大人の私達だって、今はザっとの計算しかしないのだから。

 

<割合>が必須となった現代の買い物

子どもたちにはどれほど難しいことなのかわかってもらえただろうか?

じゃあ、どこで買い物の練習をするのか?

ありがたいことに、自動販売機が日本には多い。まずはそこからだが、使えない硬貨があることやキャッシュレスで買うこともこちらも多くなってきていることも忘れずに。

 

Ⅲ.音楽・映像・動画

 

情報を得るメディアが増えた現在。新聞や雑誌、ラジオにテレビは生まれたときからある世代が今の養育者や保護者となるのだろう。今はそこに、パソコン、タブレット、スマホなども加わる。

 

新聞や雑誌のテレビ欄をみてテレビの前でスタンバイするしかなかった時代。時計とにらめっこをしていたのではないだろうか?ちょっと下の世代になると、番組をビデオ録画をするために、テレビ欄やテープの残量を確認したりした。自然と時計は読めるようになり、60進法の計算もするしかなかった。

今の子は違う。テレビ欄はボタン一つで画面に出され、そこにカーソルを合わせるだけ。自分の好きな時間に好きな番組を好きなだけ見ることができる。地上波以外のチャンネルには魅惑的な放送が流れているし、ネット上には動画も音楽もあふれている。さらにこちらは自分で探さなくても、次から次へと好みのものを流してくれる。受動的に時を忘れて楽しめる。

 

CDやレコードをお店に行って探す。テープに録音するために歌の長さを秒単位で計算する。それは今の子にしてみればとても非効率で無駄なのかもしれない。スマホひとつで音楽が買えて、曲の長さなんて気にせずダウンロード。巻き戻しや早送りだってカセットテープに慣れ親しんできた世代とはかなり違う。

 

時間に対する感覚がかなり違うことに気付いてほしい。1秒の価値観が違うのだ。良い悪いの話ではない。感覚が違うのだ。

 

ところで、あなたの家に<時計機能だけ>のものは存在するだろうか?

 

時間に追われているように言われるこの時代。実は<時刻>だけを目にすることは少ない。他の色々な情報と共に<時刻>を知る。便利で効率的だが、不必要な刺激も受けているのではないだろうか?腕時計をしなくてもスマホで時刻は知ることはできる。しかし、時刻よりも興味を引く情報がその画面に映し出されていないだろうか?

 

勉強をするときは<時刻>を知るためだけの<時計>を用意してほしい。

物は使いようなのだが、新しいものの使い勝手をよく知っているのは若い世代だ。大人の考えなんて、彼らには追い付けないって思っていた方が良い。

 

Ⅳ. 夢と趣味・仕事と生業

 

将来に夢や希望をもつ

 

よく耳にする言葉だが、どの時代に生きていても、難しいことなのではないだろうか?家制度が根強く残っていた時代なら職業を選ぶことすら難しかっただろうし、平成以降の子どもは皆が感じる好景気を知らないし、時代の流れにそった夢や希望はほんの数年でその姿を変える。「何になりたいか」「どうなりたいか」なんてわからないのだ。

 

でも<趣味>はちがう。自分の興味のあることをとことんすることは、どの時代でも夢だ。生活する金を稼ぐ<生業>をするしかないことも、どの時代でおいても必須だ。

 

「学校の勉強は役に立たない」なんていう人がいる。私から言わせれば、その人が日常に役立ててないだけの話だ。<将来>がどうなるかなんて予想はできても誰にもわかる話ではない。だから、何が役立つかわからないから、基本をザっと身につけておきましょうというのが<義務教育範囲の学習>だと、私は考えてる。小学4年生までの学習を完璧に覚えている人なんて、ほぼいない。漢字の書き順を間違えて覚えていることもあるだろう。理科で習った草花の名前は今でも言えるだろうか。社会科で習ったあの川の名前はなんだっただろう。実はそんなものだ。さらに「学習要領」は10年に一度変更されているし、習った学習内容も「聖徳太子は本当はいなかった」みたいに情報を更新していかなければならない。そんなことをすべてできている大人なんていない。だから「学校の勉強は役に立たない」と口に出すのは恥ずかしいことだとさえ私は考えている。

 

ここにジェネレーションギャップは存在するようでしていない。

 

なりたい職業ランキングは違うだろうし、流行りの趣味だって違うだろう。でも<将来への不安>は同じだ。いっぱい経験談を子どもに話してほしい。成功も失敗も、挑戦さえしなかったことや悔しかったこと、挫折したけどいい思い出になっていることや、今でもやりたいこと、たくさん話してほしい。口に出して人に伝えると、子どもに対してではなく、自分に対しての<夢>や<希望>がみえてくるかもしれない。

 

同じ時代を生きていても、自分の将来を見つめることは、子どもよりも大人の方が難しい。

 

Ⅴ. 終わりに

 

こんな講釈じみた文を書いている私だが、いつも悩んでばかり。ただ、解決の糸口の一つに「子どもとのジェネレーションギャップを考える」ことがあることをお伝えしたかっただけです。

時代の変化が激しい今。10年ひと昔といわれたのは遠い過去。変化についていくのに必死な私に対して、自分の息子たちもそうだったように、塾に来る生徒たちもス~ッと自然に対応していきます。年齢を重ねると経験が新しいものを受け入れるのを邪魔していることがあるのでしょう。

 

人生を割合で考えませんか?

 

例えば、10歳の息子と40歳のお母さんでは1年の重さが違います。10年生きてきた息子からすれば1年は人生の10%にもなりますが、お母さんからすればたったの2.5%でしかない。大人と子どもの時間や経験の感覚の違いはここからきています。

 

逆に余命で計算するとどうでしょうか。大人のこれからの比重は年齢を重ねる毎に重くなっていきます。どう生きていくかは年齢を問わず大切なことなのでしょう。

 

 

ミルクにオシメにと手をかけ育てた乳児期。「生きているだけでいい」と願っていたでしょう。その気持ちは、反抗期を迎えて会話もしてくれない年齢になっても、子どもが子どもを産んで親になったって変わらない。

 

でも、成長と共に「それだけでいい」とはいえないのが現実

生物として生命を維持していく「生きている」だけではなく、社会生活を営む者として「生きていく」を願います。それは誰に求められているからなのでしょうか?本人?あなた自身?社会?

 

私自身は今、息子たちから「生きているだけでいい」と声をかけてもらっています。でも、それだけでは息子たちにも他者にも迷惑でしかないと悩むことが多々あります。そこで、こんな言葉を自分にかけています。

 

 

「せっかく生きているのだから」

 

すこし私の話をします。

私は4年制大学・短期大学・専門学校と7校を受験し、失敗しました。筆記試験で受かっても面接で落ちた学校もありました。すべて学部が同じだったため、浪人するには学部変更を考えなくてはいけません。悩んだ私は一度就職をしました。受験勉強は続けながら、次の夢を探しました。そんな時、上の息子を妊娠しました。つわりは妊娠初期から出産後まで続きましたが、受験勉強は私の息抜きになりました。少し変わった息子だと感じながら育てて1年半後に、下の息子を妊娠しました。二人目の妊娠でもつわりはひどく、さらには妊娠を中断しないかと医師から言われるほど生育が悪い胎児でした。「生きる」の意味を考えさせられながら、注射と薬で育てた息子は41週で生まれたのに低体重児。無気肺のうえに細気管支炎にまで生後すぐにかかり、それから3歳になるまで入退院の繰り返し。このとき、やっと大学受験をあきらめました。命をお金で買っていて、私の学習欲を満たすほどのお金を用意できなかったからです。また、私が中学生のころから始まった祖母の認知症や、月齢を重ねるごとに顕著になる上の息子と他の子供との成長過程のズレ、下の息子の病気(喘息性肺炎/アトピー)、勉強しなくてはいけないことが多くなり、生活に密着しない受験勉強まで手が回らなくなったのも理由の一つです。

そんな私を、他の塾で雇ってもらうことはほぼ無理でしょう。高校卒業の資格しかないのですから。しかし、大学では学べない経験をたくさんしてきました。病気・障害・法律と勉強することは山ほどあり、その情報更新も25年以上続けています。それらを無駄にしたくなくて始めた塾も7年を過ぎようとしています。「せっかく生きているのだから」伝え続けていこうと考えています。塾の授業や面談だけでなく、より多くの方へとSNSでの発信を続けているのもそのためです。仕事にはなっていますが生業にするには足らない稼ぎなので、ここが勉強不足なのですが。

 

学びの機会は一生あります

しかし、学校の授業を無料で受ける機会は義務教育制度のある6~15歳まで。そのありがたさに気付くのは大人になってから、保護者の立場になってからしか気づけません。ギャップはここにもあるのですが、ここに世代(ジェネレーション)の違いはないでしょう。

 

2022年7月 障碍児個別指導塾 ゆうこうまぁ 伊藤真紗子

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