• 真紗子

ご褒美と対価とプレゼント

未だかつて、私は<ご褒美>が欲しいと思ったことがなかった。

中学生の時、通知表でよい成績を収めてオーディオを両親に買ってもらったが、私にとってそれは<ご褒美>ではなく<対価>でしかなかった。それが欲しくて勉強を頑張ったという記憶はない。私の目標は別のところにあり、それに付随して成績が上がっただけだった。なので、両親が喜んで私にプレゼントをくれただけという感覚だった。

プレゼントやお土産は断ることもなく、素直に喜んでいただいてきた。ある生徒さんに「お土産はいらない。私は旅行に行かないからお返しできない。」といったら「だから、私がお土産をあげるんでしょ?」と言われてハッと気づかされたのもついこの間だ。「何かいただいたらその分何かを返さなくてはいけない」と私はずっと考えていた。そう、プレゼントやお土産さえも<対価>ととらえていたのだ。きっと相手にもそれを求めて生きてきたに違いない。だから、恋愛も友情も結婚もうまくいくわけがない。私の求める<対価>を与えてくれない相手は、切り捨ててきたのだろう。そこに<愛>や<情>など存在しない。では、今もつながっている人たちとはなにがあるのだろうか。<縁>としか今の私には思い浮かぶ言葉がない。

子育てや教育の本を読んでいると<ご褒美>を設定することを勧める内容が目に入ることは多々ある。が、いかんせんその良さが私には理解できない。私自身が<ご褒美>の良さを知らないのだから、それを与える意味が分からない。よって、実行することもできないでいる。「ありがとう」の言葉や笑顔などは必須とわかっていて行動にすることもできる。だが、その笑顔でさえ息子たちを育てている時に彼らに習ったものだ。うまくできているのか怪しいと思っている。そして、それがどんなにうまくできていても<ご褒美>に値しないことも知っている。

「褒めて伸ばす」のも苦手だ。私は褒められることがものすごく苦手だからだ。自分が納得できるまで何かを成し遂げたことはほぼない。なのに褒められたりすると(私はこの程度しかできない人間と思われている)ととらえてしまい、素直にその言葉を受け止めることができない。子育てや塾で生徒さんに教えていても、褒めることはうまくできていないと思う。“できたことをまずは褒め、その後に次の目標を提示する”頭ではわかっているが、褒める作業をどうしても省略してしまう。彼たちが(もっとできる)と信じて止まない私は、正面切って彼らを褒めることができないのだ。だから報告書という文書で「できるようになったこと」と「これからの目標」を数カ月に一度生徒さんには渡している。自分の子どもたちには小さかった時の失敗談を笑い話でして「今はそんなことないよねぇ」なんて言ってる程度だ。それもお酒の力を借りないとできないという情けない自分がいる。

そんな私が<ご褒美>が欲しいと思うようになった。塾で言えば<対価>は“月謝”として保護者からいただいている。生徒さん達から“成績が上がった”や“できるようになった”という<ご褒美>をいただいていると考えている。自分の体は当たり前だが年々衰えている。自分自身を(もっとできる)と思うことができなくなった。長年患っている病気とも戦うことをやめ、付き合っていくことに重点を置いている。いろいろと疲れ、自暴自棄になることにさえも疲れた。“日々の生活をただ過ごす”ことが今の目標だ。これが人の言う“人間丸くなった”ということなのだろうか?そんな中<ご褒美>を求めるようになっている。自分に見合う<対価>を定めることができなくなって、只々“生きている”ことに対しての<ご褒美>が欲しい。自分を成長させていこうという“目標”を見失った私は<ご褒美>という“目標”が必要になっただけなのかもしれない。あぁ、年を取っただけの話か・・・

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