ご褒美と対価とプレゼント

September 4, 2018

未だかつて、私は<ご褒美>が欲しいと思ったことがなかった。

中学生の時、通知表でよい成績を収めてオーディオを両親に買ってもらったが、私にとってそれは<ご褒美>ではなく<対価>でしかなかった。それが欲しくて勉強を頑張ったという記憶はない。私の目標は別のところにあり、それに付随して成績が上がっただけだった。なので、両親が喜んで私にプレゼントをくれただけという感覚だった。

プレゼントやお土産は断ることもなく、素直に喜んでいただいてきた。ある生徒さんに「お土産はいらない。私は旅行に行かないからお返しできない。」といったら「だから、私がお土産をあげるんでしょ?」と言われてハッと気づかされたのもついこの間だ。「何かいただいたらその分何かを返さなくてはいけない」と私はずっと考えていた。そう、プレゼントやお土産さえも<対価>ととらえていたのだ。きっと相手にもそれを求めて生きてきたに違いない。だから、恋愛も友情も結婚もうまくいくわけがない。私の求める<対価>を与えてくれない相手は、切り捨ててきたのだろう。そこに<愛>や<情>など存在しない。では、今もつながっている人たちとはなにがあるのだろうか。<縁>としか今の私には思い浮かぶ言葉がない。

子育てや教育の本を読んでいると<ご褒美>を設定することを勧める内容が目に入ることは多々ある。が、いかんせんその良さが私には理解できない。私自身が<ご褒美>の良さを知らないのだから、それを与える意味が分からない。よって、実行することもできないでいる。「ありがとう」の言葉や笑顔などは必須とわかっていて行動にすることもできる。だが、その笑顔でさえ息子たちを育てている時に彼らに習ったものだ。うまくできているのか怪しいと思っている。そして、それがどんなにうまくできていても<ご褒美>に値しないことも知っている。

「褒めて伸ばす」のも苦手だ。私は褒められることがものすごく苦手だからだ。自分が納得できるまで何かを成し遂げたことはほぼない。なのに褒められたりすると(私はこの程度しかできない人間と思われている)ととらえてしまい、素直にその言葉を受け止めることができない。子育てや塾で生徒さんに教えていても、褒めることはうまくできていないと思う。“できたことをまずは褒め、その後に次の目標を提示する”頭ではわかっているが、褒める作業をどうしても省略してしまう。彼たちが(もっとできる)と信じて止まない私は、正面切って彼らを褒めることができないのだ。だから報告書という文書で「できるようになったこと」と「これからの目標」を数カ月に一度生徒さんには渡している。自分の子どもたちには小さかった時の失敗談を笑い話でして「今はそんなことないよねぇ」なんて言ってる程度だ。それもお酒の力を借りないとできないという情けない自分がいる。

そんな私が<ご褒美>が欲しいと思うようになった。塾で言えば<対価>は“月謝”として保護者からいただいている。生徒さん達から“成績が上がった”や“できるようになった”という<ご褒美>をいただいていると考えている。自分の体は当たり前だが年々衰えている。自分自身を(もっとできる)と思うことができなくなった。長年患っている病気とも戦うことをやめ、付き合っていくことに重点を置いている。いろいろと疲れ、自暴自棄になることにさえも疲れた。“日々の生活をただ過ごす”ことが今の目標だ。これが人の言う“人間丸くなった”ということなのだろうか?そんな中<ご褒美>を求めるようになっている。自分に見合う<対価>を定めることができなくなって、只々“生きている”ことに対しての<ご褒美>が欲しい。自分を成長させていこうという“目標”を見失った私は<ご褒美>という“目標”が必要になっただけなのかもしれない。あぁ、年を取っただけの話か・・・

Share on Facebook
Share on Twitter
Please reload

特集記事

I'm busy working on my blog posts. Watch this space!

Please reload

最新記事

February 26, 2019

January 18, 2019

January 3, 2019

December 13, 2018

November 19, 2018

October 19, 2018

August 26, 2018

Please reload

アーカイブ